読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

クリエイティブと鼻の穴

コピーライター悶絶秘話

ヲ・タベル

広告の世界に入って十五年。まっとうな社会人になんて一生なれないと思っていたのだけれど、うらぶれたり荒ぶれたり肌がかぶれたりしながらもなんとかここまでやってこられたのは皆々様のおかげ様であり、感謝感激雨霰。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げたいと思ったのは、まだまだ自分は勉強不足であり、知見が足りておらぬと痛感したからです。

この年になるとそれなりに経験を積み、取材先でちょっとしたアクシデントがあったときも慌てるようなことはなくなった。若いころならメガネがずれ落ちるぐらい取り乱したことも、今では落ち着いて適切に対処できる。いや〜、俺も成長したよね。などと小憎たらしい顔で調子に乗っていることへの罰を、おそらく神がお与えになったものだと思う──。その日、都内のある高級住宅を取材で訪れたとき、わたしを出迎えてくれた奥様の両脇からワキ毛がワッサーと出ていた。

いま、ワッサーと申し上げたが、モッサーと言い換えてもいい。吉本新喜劇の吉田ヒロ風にいうなら「ワキ毛ボーン!!」である。まだまだ、世の中は広いと痛感した。井の中の蛙とはわたしのことであり、もっともおそれなくてはならないのは、何かを分かった気になることだと思った。

その奥様は、中国人であった。今でこそ、西洋文化の影響でワキ毛を処理する女性が中国国内でも増えているとはいえ、中国ではもともと「体についているものは両親からの授かりもの」という意識が強く、体毛を剃る・抜くといった習慣がないそうだ。だけれどもわたしはクライアントから事前に奥様が中国人であることを知らされていなかったし、ご家族が暮らす新築住宅のインタビュー取材において、奥様はとても流暢に日本語を話されていたので、奥様の口から出身が中国であるという事実を知らされるまでは、わたしの心はずっと落ち着かなかった──。

 

まず探ったのは、「見まちがいじゃないか」という可能性である。

 

一、目にゴミが入り、あらぬものが見えた気がした。

 

一、なんらかの「影」が映って、ワキ毛のように見えた。

 

落ち着いて、シパシパとまばたきを繰り返してみても、目の前の景色は何も変わらなかった。奥様の爽やかなライトブルーのノースリーブからは生命力に満ちた黒々としたものがドバッとお出になっており、天皇陛下のように手を振っておられる(ように見える)。そして、いよいよ動揺を抑えきれなくなった小心者の魂が次に逃げ込もうとしたのが、「なんらかのアクシデント」説である。

 

一、付けまつ毛が劇的にズレるアクシデント。

 

一、偶然にして、ワキの下にゴキブリが挟まるアクシデント。

 

一、首から上は奥様で、首から下がミノタウロス。そのことに、ずっと気づかなかったアクシデント。  

 

もはや、自分がなにを疑っているのか疑わしい。首から下がミノタウロスってなんだ。オノ持ってる時点で気づくだろう。どこに取材に行っているんだ。それでわたしは、ついにはファンタジーの世界に逃避し、きっと、そうなんだ。ぼくにだけ、「まっくろくろすけ」が見えたんだ。と思うに至り、取材中も心ここにあらずでフワフワとピンクの雲間を漂っていたのである。

 

●●

 

このような無用な混乱に陥らないために必要なことは何か。それこそが、前述したように知見を高めていくことである。たとえば中国の食文化を語るときに、中国人は「四本足は机以外、飛ぶものは飛行機以外、水中のものは潜水艦以外なんでも食べる」というジョークがある。これをもってして「中国人はゲテモノ好き」と認識する人が多いが、実際にはそうではない。この言葉は華僑の行商人が世界各国でビジネスをする際「我々はどんな食品でも扱っています」と自らの豊富な食材リストをPRするための「キャッチコピー」だったのである。

このエピソードは偏見がいかに誤解を生みやすいかという警句も孕んでおり、実に興味深い。そして、そのような正しい知見にわたし自身が立脚してあれば、次に登場した奥様のご子息が、リンちゃんという幼い妹に対して発した他愛もないジョークにだって必要以上に顔を引き攣らせる必要もなかったのだ。

 

家族写真を撮るためカメラマンがレンズを構えると、インターナショナル・スクールに通っているという坊主頭の少年コウ君(仮名)は、クネクネと動いて落ち着かない。さらには、目の前にいる二歳の妹リンちゃんに対して、ちょっかいを出し続けるのだった。

言えばある程度理解してくれる大人の被写体とちがい、子どもの場合はどうしても自由に動いてしまうので写真におさめるのがむずかしい。「ハイ、撮りまーす」とカメラマンが言うなり、コウ君は両腕を大きく振り上げ、抑揚のないカタコトの日本語でこう絶叫するのだった。

 

「リンチャン・ヲ・タベルー!」

 

「ははは。コウ君、リンちゃんを食べたらだめだよ〜。おいしくないと思うよ〜(たぶん)」と言って、わたしは自らの内にNHKの「うたのお兄さん」を召喚し、もっとも適切な対応が可能なペルソナでその場を乗り切ろうとした。だけど、だめだったんです。コウ君は、どうやらそのジョークがたいそう気に入っているらしく、もう撮影のあいだ中ずっとです。「リンチャン・ヲ・タベルー!」 「リンチャン・ヲ・タベルー!」 と繰り返し、家の中となく外となく、リンちゃんを追いかけ回しておるのです。

その様子をご主人は苦笑いしながら眺め、奥様も目を細め(かつワキ毛をのぞかせ)、オホホ、オホホホと見守っておられます。知見の浅はかなわたしときたら、それがどうにもブラック・ジョークの文脈に見えてしかたなく、ああどうか、リンちゃんを食べないで。リンチャン・ヲ・タベナイデ。と思いながら真冬の電柱のようにその場に立ち尽くしていたのですが、取材時間が押し、午後から別の来客があるという奥様が少々苛立った様子を見せはじめ、コウ、もういいかげんにしなさい、声を尖らせるのですが、コウ君はあいかわらず、「リンチャン・ヲ・タベルー!」「リンチャン・ヲ・タベルー!」とやっている。  

そしてついには、堪忍袋の緒が切れた奥様が悪鬼のごとき表情で「お前ヲ、タベルよ!」と大喝したとき、わたしの中で何かが弾けた。光に満ちあふれた、新しい知見の扉が不意に開けたような気がしたのです。

 

f:id:hanaana:20160702191705j:plain

イラスト/石川恭子