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クリエイティブと鼻の穴

コピーライター悶絶秘話

華麗なるごめんあそばせ 〜妻に学ぶ断り方の極意〜

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とつぜん、このような写真を出してきてなんのつもりだと思われるかもしれないが、この鼻ノズルスプレーはわたしが愛用している『くしゃみ・鼻みず・鼻づまり スットノーズα点鼻薬』である。東戸塚駅西口のドラッグストアにて513円で買ったものだ。使い方は簡単で半透明のキャップをはずし、「鼻の穴に挿入」し、レバーを押し下げるだけで点鼻液が鼻粘膜に注入されア~ラ不思議。さきほどまで自分を悩ませていた諸症状が緩和され、鼻がすっきり通るという按配である。

 

と、そのようなことをいうと、「アラこのコピーライターさん。アフィリエイトで一儲けたくらんでいらっしゃるのかしらん。やらし。」と思われるかもしれないが、そのような思惑は微塵もない。その証拠に点鼻薬の画像をクリックしてもamazon等の商業サイトではなく「わたしが自宅の庭でなわとびをしている写真」にリンクされるのみで誰も得をしない。むしろ、わざわざそんなことに手間をかけて、損をしているのはわたしのほうだ。

 

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で、自分の花粉症は快方に向かったのだけれど、今度は妻がくしゃみをしだした。アレルゲンの侵入に全身全霊で抗うがごとく、木こりのように豪快なくしゃみを目の前で連発する──余談だが、女性が男性の前でどのようなくしゃみをするかということで、男女の関係性が判断できる、というのがわたしの持論である。たとえば「ハックション」といたって普通にくしゃみをするようであれば、そこにはフラットな関係性が見て取れる。「くちゅん」と控えめにやるようであれば、淑やかな女性性を顕在化させよういう女の思惑が垣間見られ、恋仲に発展する可能性がある。「ヘーッ・ホッ!」と木こりのようにいななくのであれば、女はわたしを木とみなしている。木は木である以上どこまでいっても木であり、わたしは恋愛の対象ではなく、伐採の対象である。

 

かつてわたしは、ある決意をもって婚姻届の「夫になる人」の欄に自分の名前を書いたことを憶えている。よしんばそれが見まちがいで、本当は「木になる人」と書かれてあったとしても(ショックである)、今日のきょうまでわたしは大黒柱として家庭を支えてきたのだし、これからも絆を大切に頑張っていこうと思っているのだから、精いっぱいに妻の身体を気づかってこう言った。

  

「ボクの鼻ノズルスプレー、使う?」

 

 ひとによって、受け取り方はいろいろあると思うけど、結果的に妻はその申し入れを断った。わたしは、妻に向けて差し出した鼻ノズルスプレーを握った手をさびしいクレーンのようにゆっくりと自分のほうに戻して、静かに容器をデスクの傍らに置いた。それから、なぜ妻はこれほど花粉症に苦しめられているのに、わたしの鼻ノズルスプレーを断ったのだろうと思った。そのとき、妻に必要なものはカルティエの時計ではなく、エルメスのスカーフでもなく、鼻ノズルスプレーであったはずだ。

矢も楯もたまらずわたしの手から鼻ノズルスプレーを奪いとって、清原容疑者のように鼻にシュポシュポやってもおかしくはない。ただ一方で、なんとなく妻の気持ちが分からないでもなかった。たとい家族でも共有しづらい道具は身の回りに存在する。家電や文房具などは共有できてもハブラシはちょっと……といったように、鼻ノズルスプレーもそういった「少し抵抗がある」もののひとつなのかもしれない。ではその抵抗とはなんだろう。鼻ノズルスプレーは、その名の通り、ノズルを鼻に挿入して薬液を粘膜に抽出することで、鼻炎症状を緩和する。そういった使い方のため、使用者の鼻粘膜とノズル部分は否応なく密着し、もはや「生々しい関係」と言っても過言ではない。しかもそれを一日に何度も使用するので、「ただならぬ関係」である。挿入され、注入されたわたしの鼻は、もう生娘ではない。妻はそんなわたしと、鼻ノズルスプレーとのねんごろな関係性を即座に察知し、身を引く意味で断りを入れたのかもしれない。

 

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前置きが長くなったが、そこで今回の主題である。前述のように、妻はわたしが貸そうかと言った鼻ノズルスプレーを断ったのだけれど、妻の断わり方があまりにも自然だったもので、わたしは「断られた」という感覚がありつつも、なんと言って断られたのか、まったく憶えていないのだった。

通常、なにかに断りを入れるときというのは、少なからず角がたつ。申し訳ありませんが、と文頭に謝罪の言葉を置いても拒絶の意味にはかわりなく、そこはかとない「わだかまり」が残ってしまうことは否めないのである。ところがそのときの妻の断り方といったら、なんだろう。和三盆の上品な舌触りにも似た「華麗なるごめんあそばせ」であって、それはわたしの目の前で柔らかな絹のようにふわりと溶けて消えた。まったく後に引きずらなかった。

いったい妻はどうやったのか。仕事を依頼したり、されたりすることの多い職業柄、そのテクニックはビジネスにおいてもきっと役にたつはずだ。わたしはその技術を会得したいと思った。だから必死で思い返してみることにしたのだ。

 

■憶測1

わたし「ボクの鼻ノズルスプレー、使う?」

妻「誠に不本意でございますが、このたび弊社では鼻ノズルスプレーの使用を見合わせることになってしまいました」

 

ビジネスシーンにおいて重要なのは、相手の立場で考えるということである。断りを入れるときも同様、「不本意ですが」という言葉を文頭に挿入することによって(今回、挿入をという言葉をたくさん使用して女性にはたいへん失礼かと思っている)、「本来はそうしたいが、できなかった」という意思を表現でき、顧客との人間関係を潤滑に保つことができる。

しかしながら、家庭内においてそのような堅苦しい断りを入れられたらどうか。ほかの人はしらないけど、自分は、妻が自らのことを弊社と呼んでいる時点でけっこう違和感を感じる。わたしが愛した(抱いた)のは妻であって、けっして「御社」なんかじゃないッ! って思う。だから、こんな断り方ではなかったはずだ。別の可能性も探ってみよう。

 

■憶測2

わたし「ボクの鼻ノズルスプレー、使う?」

妻「かたじけないが、お気持ちだけ頂戴いたす」

 

ビジネスの現場では、さまざまな誘惑も多い。つい欲にかられて誘惑に負けてしまうと、巨額の賄賂を受け取ってしまったり、ハニートラップに引っかかって家庭崩壊を招くといった事態を招きかねない。

「気持ちはありがたいが、受け取れない」。志と相容れない場合は、時に野武士のような態度で毅然と断りをいれることも必要である。そうすれば清原容疑者も現在のような転落を迎えることはなかったと思う。

だが、わたしの妻の頭にはちょんまげはついていないので、こんな回答でもなかった気がする。

  

■憶測3

わたし「ボクの鼻ノズルスプレー、使う?」

妻「よきにはからえ」

 

鷹揚というコトバは、鷹が空に飛び立つようにゆったりとおおらかな様を意味する。ささいなことにはこだわらない、執着しない。たとい異物が鼻に侵入しようとも、「愉快、愉快」と扇子を広げてパタパタする人にわたしはなりたい。だけれども、あまりにそれが行きすぎると、「この人、鼻の穴に何を入れても怒らへん人やわ」と思われ、鼻ノズルスプレーのみならず、鼻の穴に泥団子、鎌倉ハム、iPhone6s、上海ガニ等を入れられかねないので要注意だ。なかでも上海ガニについては、黒い蹄状のツメのついた両のハサミが特に危ない。あまつさえ甲羅の横部分にもノコギリの歯の形をした棘が四対あり、デンジャラス極まりない。皆さんもこの春、鼻の穴に上海ガニを入れる機会があれば不用意に鼻粘膜を傷つけてしまわないよう紐等で十文字に縛ってから行うことをオススメする(※鼻ではなく、蟹を)。それもひとつの、リスク管理といえるだろう。

でも妻は殿様じゃないので、そんな言い方はしなかったな。

 

■憶測4

わたし「ボクの鼻ノズルスプレー、使う?」

妻「Wow, it looks interesting! I’d love to go, but I go to the party tonight.(ワオ、とっても面白そう!だけど、今夜パーティがあるの)」

 

あまりにも妻が言った言葉が思い出せないもので、もしかしたら、妻はわたしに日本語ではなく英語で伝えたのかもしれないと思い至った。

なぜ英語と思ったかというと、スワヒリ語やヘブライ語だとあまりにも日常に馴染みがなく、違和感をおぼえるはずで、「英語だったらまだありえるのかな」と思ったからである。だが、翻って己自身の現況を鑑みるに、わたしの妻の名前は彩乃といい、外国人ではないはずなのに、これだと少々キャサリンじみてはいないか? もしくはアビゲイルじみてはいないか? また、パーティに行くから鼻ノズルスプレーを断るというのもおかしな話である。パーティと鼻ノズルスプレーは共存共栄できるはずだ。ドレスの胸の谷間にそっと鼻ノズルスプレーを忍ばせてダンスを踊ることだってできるだろう。

 

 

 

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  イラスト/石川恭子 

 

 

そのようなわけで、いくつかの憶測を重ねてみたが結局わたしはなんと言って鼻ノズルスプレーを断られたのか分からないままである。真実は霧の中(スプレーだけに)だ。よって、皆さんになんら有益な情報をもたらすことができなかった。そのことを大変無念に思い、いまクッキーを食べながら打ちひしがれているところだ。

いやらしくもアクセスアップを狙って、『断り方の極意』などと大上段かつ身の丈に余るタイトルをつけなければよかったと後悔している。そのことを期待して完読した人があれば、たいへん申し訳なく思う一方、よく途中で怒り出さずにここまで読み進めたものだと思う。ヒマなんじゃないか。それで、エッセーではあまりないとは思うけれど、最後はこんな言葉で締めくくってみようと思う。ごめん。